【ネタバレ注意】ピンクとグレーを観た原作を愛するオタクの戯言
昨日やっと映画を見てただ感じたことをぶつけたい一心で書き起こします。
加えて、監督のインタビューはネタバレ回避のため全く知らず、
パンフレットも売り切れにより手元にないため見当ちがいの部分多くあると思います。
本当に戯言。
それでも書き起こしたい。書きなぐりたい。
自分のブログだったら自由だしいいじゃないか。ということで、ここに起こします。
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私は、そもそも映画にでてくる河鳥大著「ピンクとグレー」は
現実世界の加藤シゲアキ著「ピンクとグレー」と内容が異なるのではと
思いながら観ていました。
ごっちを守るため、ごっちの死を神聖化させるため、
敢えて自身であるりばちゃんを情けなく才能のない男として描き、
ごっちとの間に越えられない壁をつくることで
「やはりすごい」とみんなに思わせたかったのでは、と。
そう思った理由は、劇中劇の完成を演者たちが鑑賞した後の食事会にて。
成瀬に「ぶっちゃけどうでした?」と聞かれた際、
りばちゃんとサリーの煮え切らない返事と態度に、これが真実ではないのではと感じたからです。
そうすることによって、自分の中にごっちを閉じ込めるという究極の愛を選んだのでは、と。
しかしこれは、どう考えても原作への私の愛が
むりやりにでも近づけて解釈したがった結果だと自分でも思っています。
でも、そう思いたい。
どうしてりばちゃんとサリーが付き合う設定になったのかはさっぱりわかりませんが、
そこすらもごっち亡き後傷を舐め合うようにただ一緒にいるだけで、
付き合っているわけではないのではと思ってしまうほどに
62分までの劇中劇が嘘くさくてたまりませんでした。
こんなにも嘘くさい劇中劇にしたのはなぜだろうとおもったとき、
冒頭にあげた
「河鳥大著のピンクとグレーは、事実と大いに異なる内容を記している」
にたどり着きました。
私がりばちゃんならそうするから。
事実なんて書きたくない。
あんなにも楽しくて、惨めで、輝いていた2人の日々を、大好きなごっちを、そう簡単に描きたくない。
鈴木真吾が世間につくりあげられた白木蓮吾にならざるを得ず(ごっち自身が望んだ部分も多くはありますが)、
その白木蓮吾の影を追う世間に簡単にごっちを知られてたまるか。
私ならそう思う。
だから、「加藤シゲアキ著のピンクとグレーが事実」という前提があった上で、
劇中劇はりばちゃんがつくりあげた悲しくて優しい嘘なのでは、と。
そうすることでごっちは最後まで白木蓮吾でいられるから。
しかし、それによってごっちと同じ世界に踏み入れた自分が、
ごっちと同じように少しずつ身体と心を蝕まれていく現実に耐えられず、
そんなりばちゃんをサリーも見ていられず、
すれ違いが生じたのでは、と。
そのため、最後のシーンは
りばちゃん自身も加担しつくりあげ守った『白木蓮吾』に捉われる自分との決別のために、
デュポンを白木蓮吾に投げつけたのではないかと思っています。
そうすることで、りばちゃんは『白木蓮吾』ではなく『鈴木真吾』を心に宿し、
俳優・河鳥大としての一歩をやっと歩き始めることができたのでは、と。
なんだか自分でもなんの話をしているのかわからなくなってきました。
おそらく原作への愛ゆえに捻じ曲げて解釈している点が多くあるので、
これを読んでいただいた方で「じゃあこれはどう捉えるの?」など疑問がある方ぜひお願いします。
自分でも悩んでいるんです。
指摘して欲しい。
一つ、どうしても教えて欲しい部分があります。
最後のごっちとりばちゃんの対話で
りばちゃんが「あの人のこと好きだったの?」と聞くと、
「お前が選んだんだろ」とごっちが答えるシーンがありますよね。
(セリフはうろ覚えです)
あれはどういう意味ですか?
あの人って誰?
ここについて解釈をお持ちの方、いろいろな意見をお聞きしたいです。
以上、無知で独りよがりなオタクの戯言でした。